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大吉朋子 ブログDesigns854
日々、何気なく考えていること、大事にしていること、感動の瞬間日記など思うままに書いている大吉日記。
私自身の備忘録のような、新しい発見になるときもあるから、言葉におこすことは大切ですね。
2021.06.15

すごく時間があいてしまったけど、再スタート。

今年はお気に入りのシャクヤク園の直売がお休みで、この素晴らしいお花に出会えなかった。来年は会えるかなぁ。

この自分日記を書こうと決めたのに、瞬く間に時間が過ぎて、今はもう6月。
最初の投稿は今年の初め頃で、すでに今年も半分あたりまで来ていることに少々ビビる。

ここ数日、めったにない疲労感を感じて、海に入ってなんかすっきりしたいなぁと思いながら、なぜかその腰までもが重く。

それでもこの状態の打破は海に入るしかない気がして、やっといった。

そして、ほんとうに久しぶりに時間を気にせずに、頭の中がスカッとするまで海に入ってみた。

いつものクセで、ある程度のところで一度海から上がってみたけど、なんとなくまだモヤっとした感じが残っていて、もう一度入ってみた。そして何本か乗っっていたら、気が付いたらだんだん頭の中がすっきりしていることに気が付いて、うれしかった。

ああ、この感覚か、と、何か凝り固まった考えが消え去っている感じを、生々しく感じられて、驚きでもあった。
脳の仕組みを理解したというのか。

サーフィンはほんとうにいい。

しかも、雷雨の予報だったのに晴れてきて、実に気持ちの良い空になっていて。

驚くべき波乗り効果を今回は強く実感。
気持ちが軽くなるって、これだよねぇ。

2021.04.15

「修羅場を経験することです」というアドバイス。

友人家族のカフェで頂いたオーツミルクラテ。きちんと入れてくださったコーヒーのラテの味は格別でした。

先日おもしろい話を聞いた。

あるお店の責任者の方が、スタッフ教育の一環で厚労省が行うテストを実施して、その際に厚労省の担当者からアドバイス(?)を受けたのが、「修羅場を経験することですね」と。

若い世代、という言い方は良くないけれど、まだ社会人経験の未熟な人たちが、働くことや人との関係性をうまく構築できず、先輩からの指摘や注意を聞き入れることも難しく、伸び悩み、結果的に仕事をやめるという結論を安易に口にしてしまったり、上司へ暴言を言い放ってやめていったりということがあるそうで。

そんな状況について、どうしたらいいんでしょね、と厚労省の担当者に投げかけた時に返ってきた言葉が「修羅場」。

ほんとうにその通りだと思うし、実のところ苦労や嫌な経験をせずに仕事が上達することは無いし、学びもない。
私も、それはそれは修羅場のオンパレードな20代だったし。

お役人の方がそんなセリフを普通にアドバイスとして残していったという事が、新しい感覚だった。

2021.04.06

言葉は「ブーメラン」とはよく言ったものだと思う。

満月 designs854.com

ランニング中の最初は、いろんなことを考える時間となる。

ある程度の時間走っていくと、だんだん余計なことは考えなくなるものの、走りはじめはモヤモヤしていたことを外の空気の中で動きながら考える。

考えない考えない、と無理してそのモヤモヤをなくそうとするよりも、オープンエアで走りながらというのは健全な気がするので、その重ためな思考もしばらく走らせる。
ネガティブな発想がまぁまぁ優勢気味で出てくることも、走りながらだと物理的な視野の広がりと同じくして思考も広がっていく。おおらかになるというか。

ひどい言葉を投げかけられた時、自分はどう対応したらいいんだろう。
まったく関係のない人から言われるなら気にもしないけど、それなりに関わりのある人から言われると、やはり困る。

言葉そのものに違和感ということもあるし、さらにその発言が放たれた背景が気になる。

2人以上が関わる状況での問題は、片側だけに原因があることはほぼないということは自明で、ひどい言葉を投げかけられる状況も私に反省すべきことがあるのは確か。

それでも、どんなにイマイチな状況でも、私は相手に向ける言葉は選ぶ。
言葉はブーメランのように、いい言葉も悪い言葉も自分に返ってくると思うから。

というか、そもそも、他者に対して、イマイチな言葉を向ける必要って、ほとんどないような気がする。

他者へのイマイチな言葉が出るというのは、相手の何かが気に入らない、という時だと思うけど
事故や想定外の出来事ならともかく、一般的な仕事をする中でそんなシーンって、よほど感情的にならない限り出てこないと思う。
「私が気に入らない」という、いわゆるひとりよがりという視点に他ならない。

「私」の視点はとても大切だけど、他者との関わりでそれを強調することが必要な時というのは、何かをつくりだす時くらいなんじゃないだろうか。

相手との関係性の中で、「私」の視点の軸を太くしてしまうと、結果的にその視点は客観性を欠いた主観的な、一方的なものであり、
いい感じの対話にならない。

(まぁ、もしかしたら、対話というものをはなから設定していないのかもしれないけど。…だとしたら、さらに、困るわけだが。)

言葉はエネルギーの塊で、素敵な言葉もイマイチな言葉も、必ず自分に返ってくる。

私は、仕事、プライベートにかかわらず、年齢を軸にした思考から生まれる発言は好ましくないとずっと思っている。
年齢という時間や経験というものは確かに存在するけど、それを他者との関係性や会話で登場させるのは、ただの上下関係上での発言であって
本質をずらした視点になることが多い(と感じる)。
特に仕事においては。

そして、やっかいなことは、言い放った人は悪気はないし、良かれと思ってすら言っている。
「良かれと思って」って、たいていの場合、おせっかい(すぎる)という、独りよがりな発言なのだと思うけど。

相手にとってもそれが大事かどうかなんて、こちらが決めることでもないし、促すものでもないと正直思う。
そこそこの年齢(というとあいまいだけど)になったら、本人が気づいていくものだからね。
結局のところ、その人のエゴでしかない。

言葉はブーメラン。

正しいか正しくないかというよりも、複数の視点、客観的な視点、俯瞰の視点、あらゆる方向からの視点の上に成り立つ会話が本質をとらえたものであるのは確か。

「私はこう思う」という事と、「良かれと思っての私はこう思う」というのは、別物である。

斜め上にいる自分の視点はいつでも決して忘れないようにしよう。

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