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大吉朋子 ブログDesigns854
日々、何気なく考えていること、大事にしていること、感動の瞬間日記など思うままに書いている大吉日記。
私自身の備忘録のような、新しい発見になるときもあるから、言葉におこすことは大切ですね。
2026.01.12

人との関わりから学ぶこと

人と向き合うことの、面白さと歯がゆさと、時に残念なことと。

昨年の暮れ、尻切れトンボのようになったことがあった。
その職場を辞める前に、もう一度お話をしたかったけれど叶わず、終わりの日を迎えてしまったのだ。

長い期間、信じがたいほど体調が悪い状態が続きながらも、気丈にふるまって仕事をしていた彼女。
体調不良の原因は結果的には心の疲労。心の奥深いところにずっと苦しさを抱えて頑張ていたのだ。誰にもその苦しみを話すことなく、私も察することができないままに時間が過ぎた。
あまりの不調に何かあるのだろうと思いながらも、本人自身も気が付いていないこともある。体が反応しても、そこに原因を認めるには時間がかかる。

ある日の面談で、いよいよ限界を迎えた彼女からその苦しさを聞かせてもらった時は、思わず私も泣いた。
あー、ここまでその思いを抱えてあんなに頑張っていたのか、と感情が大きく静かに揺さぶられた。
文句も言わない、なんなら理解を示して仕事をしている。その奥にはまったく違う気持ちがあるのに、だ。
彼女は20代前半、まだ若い年齢ながら、成熟した人間性を感じさせる頼もしさがあった。

その告白を受け、彼女はその職場を離れることを決断したものの、体調不良は加速し、最後は出勤できなくなってしまった。

私自身も数年前、軽度ではあったけれど、うつ状態を経験し、その身体のコントロールできない様子は少しはわかる。本当に、体の機能がばらばらになって、軌道がうまくとれなくなるのだ。

会うことなく彼女との面談は終わってしまい、その後の様子がわからないものの、注意深く連絡をしてみた。
まもなく、丁寧な返信があった。
最後に面談した以降の様子がつづられ、体調の変化と、その後の変化と。
私への言葉もあり、また泣けてきてしまった。

数か月ぶりに痛みから解放され、気持ちも、どん底から少しづつ明るい方へ動いている様子が伝わってきた。
心からほっとした。

人の心は他者には決して見えないし、わからない。
わかったなどと思うことは、大きな勘違いであり、間違いなのだ。
そこには、上下関係、年齢は関係ない。上の人間だからわかる、なども絶対にあり得ない。

彼女との関わりからたくさんのことを学ばせていただいた。
またいつか、元気に会えることがあったらうれしいな。

2026.01.04

2026年「新しい始まりの年」

数秘学での2025年は、ひとつのサイクルが終わる年。世の中の大きな流れとしては、“手放し”や“終結”がテーマ。

2017年から始まったエネルギーが2025年で一巡し、2026年の「始まりの年」を堺に、次の新しいエネルギーサイクルへと移行していく。
すでにエネルギーは変わり始めていて、だいたい2月頃に切り替わる。

「始まりの年」といっても、1月になった途端に何かが始まるということではなく、一年を通して、この先何年かを見据えたエネルギーが徐々に高まっていく、というイメージ。

2025年に不要なものを手放し、スペースができて身軽になったところで、新しいエネルギーを取り入れる。
仕事でもプライベートでも、何か新しいことを始めてみるのが大事な一年。
上手くいくかどうかよりも、まずは始めてみる。まずは種をまいてみる。これが肝心。
今年の種まきによって、これからの道の広がりが変わっていく。

新しいことを始め、自分の可能性を広げる2026年。

2025.11.09

メンター

28歳頃から母によく相談するようになった。
もちろん、母親なんだから、と、今なら真っ先に思い浮かぶ相談相手だけど、当時は案外そうでもなかった。

これまでの人生で一番思い悩んだと思うのは大学2年生の時。
大学のこと、今後の進路について、母に相談したかったけれど、当時、母は仕事でほとんど家にいなかった。いないだけでなく、かなり重いクライエントとの関わりに懸命だった。
一方、私自身もアルバイトに忙しくして、わざわざ母と時間を合わせようという気持ちもなかったんだと思う。
それでもその頃の私は、「今、一生分悩んでいるのでは?」と、頭がパンパンになるくらい考えを巡らせていた。今の自分が見たら大した悩みでもないと思うけれど、当時は誰にも話すことができないからこそモヤモヤが増大して、大変だったんだと思う、私。

そして、28歳のころは、仕事に一生懸命になればなるほど、空回りする日々が続きに続いて、とにかく苦しかった。理解者に私の話を聞いてもらい、なにか少しでもいいから光を見つけられないかと、「カウンセラーとしての母」へ連絡をとったのだ。

臨床心理士という職業をよくわかっていたわけではないが、ふつうの母親の返答とは少し違うということを、若いなりにも感じていたと思う。多い時には週に3~4回、仕事帰りの遅い時間に母と食事をしたり、お茶をしたりして、そこで頭を切り替えてから帰宅していた。

母のカウンセリングを受けている、という感覚はなかったものの、それは間違いなくカウンセリングだった。
母は母であり、同時にプロのカウンセラーだった。
なかなかすごい時間を過ごしていたのに、ほんと、その時はその尊い時間の意義をそこまで感じてなかった。

28~30歳あたりの時期がピークにどん底だったと思う。
気持ちと頭と、全部バラバラで、自分がまとまらなかた。
言われることも、頭の先で理解したつもりになって、毎回カウンセリング時間は過ぎていった。

その頃から、「メンター」として、母の存在が大きくなっていった。

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