ランニング中の最初は、いろんなことを考える時間となる。
ある程度の時間走っていくと、だんだん余計なことは考えなくなるものの、走りはじめはモヤモヤしていたことを外の空気の中で動きながら考える。
考えない考えない、と無理してそのモヤモヤをなくそうとするよりも、オープンエアで走りながらというのは健全な気がするので、その重ためな思考もしばらく走らせる。
ネガティブな発想がまぁまぁ優勢気味で出てくることも、走りながらだと物理的な視野の広がりと同じくして思考も広がっていく。おおらかになるというか。
ひどい言葉を投げかけられた時、自分はどう対応したらいいんだろう。
まったく関係のない人から言われるなら気にもしないけど、それなりに関わりのある人から言われると、やはり困る。
言葉そのものに違和感ということもあるし、さらにその発言が放たれた背景が気になる。
2人以上が関わる状況での問題は、片側だけに原因があることはほぼないということは自明で、ひどい言葉を投げかけられる状況も私に反省すべきことがあるのは確か。
それでも、どんなにイマイチな状況でも、私は相手に向ける言葉は選ぶ。
言葉はブーメランのように、いい言葉も悪い言葉も自分に返ってくると思うから。
というか、そもそも、他者に対して、イマイチな言葉を向ける必要って、ほとんどないような気がする。
他者へのイマイチな言葉が出るというのは、相手の何かが気に入らない、という時だと思うけど
事故や想定外の出来事ならともかく、一般的な仕事をする中でそんなシーンって、よほど感情的にならない限り出てこないと思う。
「私が気に入らない」という、いわゆるひとりよがりという視点に他ならない。
「私」の視点はとても大切だけど、他者との関わりでそれを強調することが必要な時というのは、何かをつくりだす時くらいなんじゃないだろうか。
相手との関係性の中で、「私」の視点の軸を太くしてしまうと、結果的にその視点は客観性を欠いた主観的な、一方的なものであり、
いい感じの対話にならない。
(まぁ、もしかしたら、対話というものをはなから設定していないのかもしれないけど。…だとしたら、さらに、困るわけだが。)
言葉はエネルギーの塊で、素敵な言葉もイマイチな言葉も、必ず自分に返ってくる。
私は、仕事、プライベートにかかわらず、年齢を軸にした思考から生まれる発言は好ましくないとずっと思っている。
年齢という時間や経験というものは確かに存在するけど、それを他者との関係性や会話で登場させるのは、ただの上下関係上での発言であって
本質をずらした視点になることが多い(と感じる)。
特に仕事においては。
そして、やっかいなことは、言い放った人は悪気はないし、良かれと思ってすら言っている。
「良かれと思って」って、たいていの場合、おせっかい(すぎる)という、独りよがりな発言なのだと思うけど。
相手にとってもそれが大事かどうかなんて、こちらが決めることでもないし、促すものでもないと正直思う。
そこそこの年齢(というとあいまいだけど)になったら、本人が気づいていくものだからね。
結局のところ、その人のエゴでしかない。
言葉はブーメラン。
正しいか正しくないかというよりも、複数の視点、客観的な視点、俯瞰の視点、あらゆる方向からの視点の上に成り立つ会話が本質をとらえたものであるのは確か。
「私はこう思う」という事と、「良かれと思っての私はこう思う」というのは、別物である。
斜め上にいる自分の視点はいつでも決して忘れないようにしよう。