ここのところ、あらためて気になる事に「手書き」がある。
もともとノート類が好きで、ちょっと上等なノートもキャンパスの大学ノートも好き。なんとなく書くという感覚が私にはフィットするように思う。
ウェブの仕事をしたりしていると、ミーティングにはノートパソコンをもってパチパチ売ってそうなイメージだけど、私は話し合いで記録用にパソコンを持っていくことはまずない。
これは、お気に入りのノートパソコンを手に入れても、変わらない。
パソコンでメモするよりもノートに手書きする方が、その時の感じが記憶に残るし、どんな話をして、どんな話に脱線したのか、とかまで見たら思い出せて、いい。
そんな当たり前の感じで思いつつ、調子の出ないときって、書いてない。
だから調子が悪いのかもしれないけど。
頭の中でモンモンとして、グルグルまわっているのだと思うけど。
ここ最近、少しやる気が出てきて、すると「手書き」の良さというのに、なんだか急にアンテナがいくというか、そんなかんじがある。
パソコンできれいにできるものは確実に美しいし、プロっぽいんだけど、なんかそれではない味わいというのか、感じが、手書きにあるような。
この夏の大きな展覧会をいくつか見てみても、なんというか、「手書き」「手描き」がとても際立っているような気がする。
グラフィックはもちろんパソコンから生まれた文字でできているけれど、展示物は、そもそもパソコンがまだない時代のものだっりするから、ひとつひとつ丁寧なレタリングとか、とっても味わい深い。
その当時のユニークな文字を読みやすく作られたものが様々なフォントとなっているとおもうけれど、家具の仕事をしている時にひたすら絵筆で文字を描いてポップを作っていたことが急にすごいことだと思えてきた。
あの時のいろんなポップ、パソコンだとできないものだったんだと思う。
手書きの方が時間もかかるし、手間なんだけど、「書く」「描く」を見直してみるタイミングなんだと自分的に思う。
数秘学の講座を受けていた時のノート。
書き始めはどんなページに書きあがるのかわからないけど、最後まで書くとなかなかすごいものになっている。
数秘学でいうところの「7」は、オーラ(エネルギー)の数字で、ボーダー、境界線、言葉、コミュニケーション。
自分の心地良いと感じる領域、スペースという意味もある。
いいエネルギーが放たれていると、相手とのいい感じの距離感だったり、会話があったりするけれど
少し厄介なエネルギーの場合は、物理的な距離も著しく近かったり、言葉が足らなかったり、言葉を策略的に使ってきたり、あまりいい感じでないコミュニケーションになっていたりする。
そうと知る前(つまり数秘学を知る前)から、その人の放つオーラみたいなものには敏感で、なんとなく雰囲気で伝わるものだから、おそらく「7」がちょっと厄介な方とは自然と距離をとるようにして、距離感を保つようにしてきていた。
だから、なんとなくよそよそしい感じの人、とか、付き合いが悪い人、よくわからない人、などなど思われたりしたかもしれない。
それでも、人にどう思われるか、ということにはあまり縛られないというか、気にならないタイプなので、そんなふうにしてきた。
なんとなくの愛想笑いもできないし(ものすごくわざとらしくなってしまう)、腹の内を探り合うようなやり取りはたぶんできるけど疲労するし、直観的によいと思っても後からそうではなかったという出会いもあるし、きちんと大人の対応としてそういう方々との付き合いを続けるという選択肢もあると思うけれど、今は自分に無理強いをしてまで続けることはないかなと思うから、ご縁がなかったんだなと思って前に進む。
と、そんなマイペースで来たものの、しばらく安定していた?そんな境界線がネックになる出来事が起きた2021年は、私にとっては少々印象深い。
何かトラブルが起きるときというのは、その事の問題そのものよりも、自分の中での変化を起こす必要があるタイミングなんだというサインだと、しみじみ思う。
仕事であれなんでも、その事の問題点はそれはそれとして解決することが必要だけど、そもそもそれが発生した自分の中に、何かが起きてきていて、そこが今の自分の変革ポイントなんだという本質に気がつく。
それをより明確に客観的に伝えてくれるものが数秘学の自分のストーリー、各ナンバーだったりするから、数秘学っておもしろいし、奥が深い。
まぁ、しんどいときはしんどいけど。
人生におけることは、すべて無意味なことなんかなくて、今すぐに必要でなくても、必ずいつかにいつかのことが役立つものだと、心から思っている。
だから、人とのコミュニケーションの難しさだって、いつかは他の何かにその経験が役立つわけだと思いつつ、延々、暖簾に腕押しというのが続くと、少々へこたれる。
理性が働く相手であれば、その時に難しくても時間が経過すると変化することは経験上で実感がある。
では、理性が働いていない(と思われる)相手の場合は、どうしたものなんだろうか。
いつの日か、このモンモンとした思いや気持ちが、役立つ時が来るとほんとうに思うけれど、
今の今、どう対処したものかと、悩むのも事実。
あの時はこうだったなー、と、軽やかに言ってのける頃は必ず来るから、今はこの学びを自分なりにあの手この手の角度から眺めるしかないのか、な。
10数年前もよくそんな心境になっていたけど(ちょっと状況が違うけど)、「3か月後の自分は今と同じ思いだろうか?」と、自問自答していたことを思い出す。
幸いにも、そこまでネガティブ思考が強くはないから、3か月後は今の思いは全然ないだろうなって思って、いつもやり過ごしていた。
あの時の恐ろしくパワーがあって、どこか狂ったように自分を追い込んでいた頃は、それはそれで多くの学びをのちにもたらしたけど、だからこそ、今の自分がどう目の前にあることに取り組むかはなかなか興味深い。