写真はオーストラリアのブルーマウンテン。快晴の素晴らしいお天気に恵まれて、最高だった。
高所恐怖症気味の私には、精一杯の笑顔だけど。
子どもが成長する時に「大きくなったねぇ~」と思わず口にするのは、
出来ることが増えた時が一番わかりやすいような気がする。
自分でなんでもは出来ないけれど、ひとつでもふたつでも、出来ることが増えると、
行動範囲も広がるだろうし、自分の達成感も大きくなる。
大人になって、成熟を超え、老いというものを感じる時はいったいどういう時なのだろうか、と思うと、
きっと今まで出来ていたことが出来なくなったり、やろうという気力すら起きなかったりする時だと察する。
両親を見ていてもそう思う。
それが悪いわけでもなんでもなくて、人間は年老いていけば、そうなることは自然だし、無理に頑張らなくてもいいと思う。
そこまでの長い人生、さんざん家族のため、周りのために、尽くしてきた時間も長いんだから。
では、私くらいの人生半分くらいの人間はどうかといえば、
ある意味子供と同じで、ひとつでも二つでもできることは多い方がいいし、
やれることすら「やらない」選択をすることで、できることを自ら手放しているかもしれない。
人に頼むことに慣れてしまうと、「頼む」ことで物事が解決するかのように見えてしまうんじゃないだろうか。
自分で何かすることで解決でき、さらには小さな達成感まで感じられたりすることすら他人に頼んでしまうのは、合理的、といえばいいけれど、生きる強度みたいなものが弱まっていく気がする。
まさに「老い」に通じる感覚すら思う。
頼むことが良いとか悪いとかの話ではない。
もしも、その事は自分でできる事なのだとしたら、まずは「やってみる」方向で考えてみる方が、前向きなような気がする。
もしも、自分では「やらない」「できない」という設定の上、他人に頼む習慣が出来てしまっていたら、、、どうなんだろうか。。
自分でできることを増やすことは、実は自分の幸福感も上がると思う。
何しろ、それをやり遂げた時の満足感だって、自分で存分に味わえるし。
とはいえ、自分でやり遂げることに魅力を感じない人もいるのだよな、きっと。
やってもらう事で満足感。
そうかもしれない。というか、そうなんだな。
私は、自分でできることを増やして、それでも、出来ないことなんて星の数ほどあるわけだから、
そのときにこれぞ!という方に手伝っていただけたら、うれしいなぁと思う。
米・モニュメントバレーにて。ユタ州・ナバホ族のつくるアクセサリー。とても独特な空気の流れる時間と場所だった(2013年撮影)
ヨガ数秘学の先生であり大先輩のYUKOさんから、デザインについてのご質問というのか、お尋ねがあって。。
デザインとはなんぞや、ということを私が語ることではないけれど、
しばしば、数秘学でいうところのデザインについて思う事があったので、そのことを少しお伝えしました。
デザインは数字でいうと、3・4・5の行為だなぁと、私的には思っていて、
最終的にはすべての数字がはまるので、全部、というのがふさわしいけれど、
あえて、デザインする行為を数字で言うと、こうなるよな、といつも思う。
一般的には、デザインやクリエイティブなことって、3や5を連想すると思われるが
その間の「4」がかなりのキモだと思う。
というか、4がなかったら単なる独りよがりなモノづくりになってしまうから。
とはいえ、そんな質問によって、デザインって奥深い思考回路でもあって、
数秘学でいうと、すべての要素がピタリとはまり、
それは人生でもあるという話にもなるかな。
1・ひとつのきっかけやアイデアを
2・誰かに共有してみて
3・そのアイデアをもっと自由に広げて、自由に考えて
4・それらの無限とも思えるいろいろな要素を整理して、
5・もっとも大切なエッセンスをもとにカタチあるものに起こしていく
6・そのカタチは心に響くのか?
7・その先の使い手、応援団、そのほかのシーンとのコミュニケーションツールとなり
8・様々な豊かさを生み出す大きなエネルギー
9・ほんとうに必要なものは残り、そうでもないものは常に潔く手放し
10・より光輝くものへと進化して、次のサイクルへとアップデート
11・見えないものとのつながりが常に道しるべでもある
ささっと書き出してみて、このような。
またこれらはアップデートしよう。
2021年9月から11月の3か月、私にとって新しいチャレンジの時間。
今年の春くらいから、心の奥にざわざわ沸き起こる感覚があって、心の表層に出現した6月。
そこから8月くらいまでは、時間が止まっていた。人生で初めての経験。
ネガティブという言葉がダイレクトに自分に覆いかぶさる体験って、そうそうないんだと思う。
ある意味貴重だけど、その瞬間の日々は、ほんとにしんどかった。
あの経験があって、この3か月の学びを、今やらなければ、と背中を押してもらったことは確か。
だから、苦しい経験も今は有難いものだと心から思う。
とはいえ、人に苦しい思いや気持ちを起こさせる行為は肯定はしない。
ほんとうに必要なこととは思えないから。
年齢が重なると、色々なことは相当深いところで交じり合う分、いかにクリアなエッセンスだけを救い上げるかが、とても大切なように思う。
この3か月の学びも、なかなかしんどかった。
自分と向き合う時間。
勉強することと、向き合うこと。
濃い時間だった。
感謝。