
4月1日、新年度。
何か新しいことを、と思いながらも、年度切り替えは今のところ自分にはかかわらない。
朝から雨が降り続く1日。
雨は一時的にやむも、降り続く。
霧雨かなと思い、ランニングへ。
外に出ると、まぁまぁ降っているし、何より風が強くて、方向によって雨がシャワーのように顔に降り注ぐ。
こういう時、海に入り、大きな波を超えていく時に同じことを思う。
「この選択をするのは、変わってるよな」と。
あくまでも自分のものさしで。
海でのそれは、私の体験する波はそこまで巨大ではないけれど
上級者のサーファーたちが挑むあの大きな波は、ふつうの感覚では選ばない特別な世界だと思う。
人と違うことをすることで気が付くことがある、と子どもの時から思っている。
なんの根拠もないのに。
ただ、人と同じ目線では見えないことが世のなかには多いのだろうと、本能でわかっていたのかな。
大人になって、いろいろな葛藤、試行錯誤、変化変貌を繰り返して、今、日常的にすぐ手に入る「少し違うこと」
これが雨の日のランニング。
雨で空気中のヨゴレみたいなものが地面に落とされるからなのか、思いのほか嗅覚は鋭くなる。
いつもはランニングしている人に一人は出会うけど、会うことはない。
雨の日に走ることはやや体にも負担がある様子。
ただ、雨の中で一番何が負担と感じるのか、と意識してみると、実は濡れることはあまり気にならなくて
「雨だから」という設定が、何か負荷のかかるものだという意識を増幅させているだけではないかと気が付く。
意識の中にある、無意識に近いバイアス。
もちろん、シューズも濡れるし重くなる。当然スピードは出ない。
体は冷えるし、よろしくはないだろうとも少しは思う。
それでもいつものルーティンをすることで、心の平穏は保たれる。そのメリットの方が体が冷えることよりも私には大きい。
冷えたからだが温めたらいいのだから。
自分の中のバイアスに気が付く機会にもなる「雨の中のランニング」
そして、いかに人は無意識のバイアスで物事をとらえているのか、ということに視線が向いていく。

福来三光松、プロテア、菊いろいろ、アルストロメリア、千両、銀柳
今年は穏やかな元旦を過ごすことができ、家族の健康と平和な時間をもてることに心から感謝します。
AIの進化と共に、人間の生み出すものや事の価値を考えざるを得ない時代。
世の中の大きな流れと傍観せず、自分自身が何者なのかをあらためて問う時代なんだと思う。
chatGPTを適切に使うことは、自分の進化の一助となることは確かで
ヘタにモヤモヤしたり、ウオサオするよりも合理的に問題解決の糸口が見える。
そして、そこで生まれた余白をどう生かすのか。自分次第なわけですが。
2025年は「9」という一つのサイクルが終わる年。
数字から見える世界は、なかなかな厳しさと、
そこから広がる現実は非常に明確で、
ある意味気持ちがいいほど潔いものなのだとも想像する。
「終わる」というのはそれなりに覚悟がいることであるし、
難しく考えるほどわからないことだったりもする。
やりたい事を考える時、理想通りにいかないことはいくつもあって
やりたいこと、というと始まり感があるのだけど、
やりたいことがイメージ通りに進まない時にブレーキになってしまうであろうことを想像してみる
すると、終わらせる、手放すものが、なんとなくクリアになってくる。
何も終わらせるものがない、と思っても、やっぱりある。
「9」は厳しい数字だけど、その先に進みたいと心から願う人にとっては大事な時間だと気づかせてくれる。
個人的には「7」の年。
オーラの数字であり、あらゆる「スペース」の数字でもある。
ここをきっちり整えて、良い2025年をダッシュしたいと思う。

2024年Colla:J コラージ12月号に書いたもの話。
私の人生での大きな発見について。
人は10歳くらいでパーソナリティが確立してくる、というのは母からの教えでもあるけれど
実際に私にとっても10歳というのは、大事な時間だったのだと、
オトナになった今、あらためて思う。
母が心理学の専門学校で講師をしていた時のこと。
あるとき、母が生徒さんたちのレポート答案を採点していた。
人の答案なんて読んではいけないだろうとは思いつつ、
どうしても読んでみたくなり、それらのレポートを読んでもいいか聞いてみたのだ。
母はあっさり「いいわよ」と。
10歳の私にとって、読めない漢字もあるし、字もきれいなものから読めないようなものまでいろいろ。
それでも何枚も読んでいくうちに、ある事柄が書かれていることがわかってきた。
ある事例についての考察が書かれていたのだと思う。
その中でだんだんと気が付き、気になることが出てきた。
私は、「人が人に寄りかかっていて、その寄りかかっているのが寄りかかりすぎていて、それでその人達には何か問題が起こっているんだよね? これは大人の言葉で何て言うの?」と、母に質問した。
そして、母からの回答は、「いぞん、っていうのよね」と、短いものだった。
子どもながらにモヤモヤしていた事がそんなに短い言葉で表現されるのかと、大人の言葉を知った感動があった。
そして、大人の世界では短い言葉に多くの意味が含まれていて、子どもの私の思考の中に広がっていた景色をさらっと諭してもらったような、なんだかひとつオトナになった気分。
頭のどこかがパッと開いたような感覚があった。
そして「いぞん」というのは大きくなると、人に問題を起こすものなのだということを、小学生なりではあったけれどなんとなく理解し腹落ちした。
この言葉との出逢いは、私が「人」について興味を持つきっかけだったと思う。
自分の外側の世界では想像もしないような事柄がたくさんあり、問題が起こるのにはそれ相応の“理由”があるのだと、子どもながらにとてつもなく大きなことを知った感覚だった。
互いに頼り合う関係はごく自然なことのように思う。
ただ良好な関係のためには「いぞん」が大きくなってしまうと難しくなる。
そのためには…と、10歳の私にとって大きな発見をしたものだと、年齢を重ねるごとにそのときの体験がおもしろい記憶となって時々思い出す。
レポートを読んでしまったのは良くなかったと思うけれど、35年以上前の出来事ということで、時効になるかと思っている。