俯瞰から見る視点
20代後半、毎日のように怒られ続ける日々(というイメージが強い)、何回も「辞めてやる」と思って過ごしていた。
そう思った瞬間は思い出せないけど、思考を転換した瞬間のことはありありと記憶している。
会社(お店)の2Fから3Fへの階段の途中、薄いピンク色の壁、
気分を上げようと、朝自宅からカットしてわざわざ持って行ったハマユウの大きな葉をお店の階段にディスプレイした時。
「半年後も今のこの感情と同じかな…」
と、頭に浮かんだ。
「1か月後の今、同じこと思っているのか?」とか、
「2週間後は?ま、それは同じか、いや、もうすでに別のこと考えてるな」とか
じゃぁ、今のこの感覚は一時的な感情の高ぶりか、、、仕方ない、今日はなんとかやり過ごそう。
こんなことを一人でその階段の踊り場の、ほんの一瞬みたいな時間に考えていた。
その自分の目線に映っていたものが、ほんとうに驚くほど鮮明にある。
なぜこういう視点を持てるようになったのか。
さんざん写真を撮る時に「俯瞰の目」と言われ続けたことが、じわじわと自分の中に落とし込まれたのかもしれない。自分自身をも俯瞰する目を養っていたということなのか。
この「〇か月後も同じ気持ちか?」という自分への問いは、そののちもとても役にたっている。
実際にどう考えても同じだという結論に至ると潔く決定できる。が、なかなか決定を実行に移すのにハードルがあったりもしたけど。
このころの客観的な目線はまだまだ粗削りなものだったと思うが、
その素質を自覚できていた自分はなかなかいい筋を持っているではないか、と自分のことながら感心する。
前向き思考という一言に収めるには、人の感情や思考は多様な側面があり、それをひとつひとつ分解して捉えないと、自分ごとなのにとても大雑把な捉え方で「わかった」という設定になってしまう。
面談をするとき、私が大事にしているのはこの分解の先に見つかる小さな点のような気がする。
その人が本当に持っている、自分でも気が付かない点。
小さい点だから、いきなり仕事で活用できたり上達を促すものでもないのだけれど、確実にその人の中で育っていき、それが軸となり幹を太くすることも大いにある。
とはいえ、その行為そのものには時間を要するわけで、人の小さな点を見つけることに時間をさく余裕など、どこの会社も難しいだろうと想像する。
それでも、この点に気がつくことが自ら発見できれば本人も周囲もハッピーだが
気が付かないままに走らせていると、早い段階で息切れしてくる。片方か、双方ともに。
昨日、認知科学についてのトークを聞いている中、クリティカルシンキングについての話があり
その言葉を知ってはいたが理解はしていなかったところで、すでに実装していた自分を思い出した。
思えば、ずっと大事にしている「クリティカルシンキング」。前向き思考ではなく、こちら側の解釈の方が自分には近い。
この思考回路も、おそらくヨガを毎日練習していた時に知らぬ間に蓄積され、小さな芽だったものが、実態を帯びてきたひとつな気がする。
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